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私見発言掲示板--「ばん まい」が管理・運営しています。
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芸とはナニか
投稿者:
ばん まい
投稿日:2004年 5月21日(金)23時20分59秒
仏語のartiste とartisan という語で表される対象は、異なる。 この違い
は、作家か職人か/少産か量産か/他称か自称か/突飛か地道か/怪しげか確か
か、といったことを根拠にしているように思えるが、この根拠を精確に記述
しようとすると困難を覚える。 しかし、語は、明らかに異なる使い方をされ
る。
=====
自分以外の人に読んで貰うに耐える文章を書けるようになろうと思って、先ず
は自分で最も扱いやすい言語によって、日誌めいたものやらメルマガジンを出
してみることにした。 そもそも、「読んで貰うに耐える文章」は、学術論文
にて駆使したかった。
少なくとも仲間内で容易に想像できる内容を、目の覚めるような、明・精・的
の確かさを備えた文章で綴ってみたかった。 何というか、そのくらいの表現
を世に送り出せねば、自然科学はいつまで経ってもミヤコびとから観たアヅマ
びとのように粗野な学域であり続ける、と思っている。
=====
artiste とartisan の違いは、「芸」と「学」の違いと似ている。 私はやは
り、「学」として多くの人が思いつく事柄を扱って、「芸」と呼んで貰える
表現をしたい。 実は、この頃また、毎日壁を観て生活しているような感覚
---「芸」はきっと、壁の向こうに転がっているのではないか?--を味わって
いる。
『渡辺一夫 敗戦日記』(博文館新社)は、串田孫一の本だ。 編者であるはず
の串田の考えが、余りにも漂いすぎている。 渡辺の「芸」である日記が、
串田本に収まってしまっている。 左右を間違えてサンダルを履いたような
感覚を読後にもたらす本だ。 ひとの「芸」とはきっと、本人以外の者には
複写/伝達が不可能な表現/出力なのだ。
ヘッセの作品中でシッダルタは言う。 "Wisdom cannot be communicated.
... Knowledge can be communicated but not wisdom." art だの「芸」
だのとは、とすると、wisdom と似たものであると考えて、間違いではない
かも知れぬ。
メモ・120402004
投稿者:
ばん まい
投稿日:2004年 4月12日(月)23時45分38秒
*以下、言い直しに"?"が付されている場合、その語で的確か判断できていない
ことを示す
*前半は大風呂敷・後半は畳一畳
==========
ヒトの表現?(outcome)において最も純粋(pure)なものは、拒否(refuse)である
と思う。 拒否の結果は、受諾(accept)や同意(agree)が起こった場合よりも
その表現の対象を明らかに描き出す。
ヒトにとって居心地の佳い環境とは、ヒトが自らの願い(wish)を現実のものと
するために積む努力(effort)が均等?(homogenous)に好効率?(effective)で
ある状況を指すと考える。
あらゆる生産--生命の発生や教育--(reproduction)には、鋳型--親や思想--
(prototype)の再生産(copy)ではなく、上記の環境の担い手を育てること
もしくは、上記の環境は目指すべきとして掲げるに足らぬという場合、智慧
(wisdom/understanding)の担い手を輩出することが期待される。
これまでヒト社会は、構成員の責任(identification/oneness)の認識を回避させ
てやる統治(governance)のしかたによって平穏さを保つことを目指して(optimise)
きた。 社会構成員のidentification/onenessとは何であるのかは、智慧を掴むこと
によって明らかになる。 この統治思想は、智慧(wisdom/understanding)を掴むこと
を、ヒトが、その(Lockeの云う)nobleさ故に困難を覚えて避けたことの到達点に
過ぎない。
社会統治方法の拠り所としている考え(何のために統治が必要なのか)がこの
ところ、(少なくとも)前1000年の主流を成していたものとは異なってきている
ように思う--読みたい/理解したいのは、more abstracted "Empire" more precise
"Multitude"--。 主流に変化が出てきているのではなく、亜流に妙な考えが出て
きているだけなのかも知れないが、これは愉快なことだ。 自己の責任を回避せぬ者
が増えてきているのだろう。
=====
この頃の東京大学の様子は面白いものに見える。 先ず大学広報を整えようとした。
広報を整えることに、内部を広報するに耐えるものとして整頓することと外部から
の注目を集めて自己を整備する(人材や資金・協力の流入)ことに繋がる。 こう
して自己評価の手段を確保した後に独自の資金運用を開始した。 東京大学は、独自
の統治思想・存在意義をより明確にしようとしているのだろう。 どうかこれで、
折角の組織が、智慧を掴める人間をより多く育てる機関となって欲しい。
編集済
Honesty is such a lonely word
投稿者:
ばん まい
投稿日:2004年 2月27日(金)20時32分24秒
現代での公共の報道媒体というものの最優先する/最重視される機能とは、惨事を
数多くの人間に伝達することなのだ、と実感するのは、今日のような場合に、だ。
BBCラヂオのニュウス番組冒頭に、日本での宗教者への死刑判決について伝えられる。
「暗いニュウスばかり」と我々は挨拶のように言い合うが、それは何も、ニュウス
の伝達媒体が腐敗していたり非人道的であることを示している訳ではない---マス
メディアの基本的機能に接しているだけのことだ。
カラ返事・安請け合い・下品な笑い・卑屈な敬意・careless conversation /
logic with temper / その場でだけ発散される怒り・下手な辻褄合わせ・
怖いもの見たさ・thoughtless decision・・・我々は、そういうもので構成され
ている生物だ。 それを直視(納得・解消ではない)して、反省・精進してゆく
しか、自身が存在することへの責任を果たす路はないとおもう。 マスメディアは
その「直視」の一助といえよう。 では、「暗くない」ニュウスは・・・風の便り
で伝わって行くしかないのかな、とおもう。
「しろ板」の今後
投稿者:
ばん まい
投稿日:2004年 2月15日(日)22時10分42秒
当所をご訪問下さり、どうもありがとうございます。
私見発言掲示板こと当「しろ板」を今後はエエゴで続けて行こうと思っています。
この場所に英語での書き込みを続けるのではなく、これまで使ってきた別所に
「私見発言」の機能を持たせるつもりでいます。 この変革の動機となった理由や
事情は、あるようで無いと感じています。 この場所には、日本語が似合いである
と思えることについて書き、書いたことは、「らくだ板」でお知らせします。
メモ・100204
投稿者:
ばん まい
投稿日:2004年 2月11日(水)07時45分44秒
*非営利製薬会社
Social Entrepreneurship という語を目にするようになって随分経つが、その
現実の姿はどうも把握しにくいものであった。 それが、OneWorld Health という
非営利会社(U.S.での課税に制限がある会社組織)が、発展途上国での感染症
などに対する薬品の開発において、Social Entrepreneurshipを体現することに
なりそうだ。
薬をつくるまでの詳細は明らかになっていないが、この会社の強みは、
independence
資金に「独自性」を持たせることに成功している
patent treatment
特許の取り扱いを了解している
'modular' organisation
別団体との協力を容易に築くことを可能とする組織の形態である
といった点であると思う。 バイオ関連の研究成果を利用して「起業」することが
各国で盛んに勧められているが、この奨励は”下手な鉄砲、数打ってみている”
ようなものだという気がしてならない。 資金の性格/性質を精確に把握し、組織
の存在目的を明確に打ち出せて初めて、「業」は回転する。
http://www.oneworldhealth.org
編集済
メモ・250103
投稿者:
ばん まい
投稿日:2004年 1月25日(日)20時27分57秒
日本語における訳語を考え直しすなり、何通りかの訳語を並記したほうがよさそう
に思える語がある。 英仏語と日本語とでの、現代での用法がもたらす各語特有の
意味の幅が大きく異なると感じるから、そう思えるのだろう。
philosophy
policy
politics
science
work と labour
メモ・180104
投稿者:
ばん まい
投稿日:2004年 1月18日(日)23時54分31秒
*保安と保健
社会生活における安全/健康確保のためという大前提を存在根拠とする製品や
仕組みが、続々と世の中に出てきている。 これらの製品/仕組みが行おうと
していることとは、疑わしい存在を検出することだ。 癌検診然り、テロ対策
然り。
疑わしい存在を検出するフィルタ(=網の目)に自分が捕らえられなければ、
自分に疑いが降りかかることがない--それで、世界の人間は、自分だけは
”疑わしい”人間になるまいとすることだろう。 ここで自分の存在を肯定
できる基準として人々が採用するものといえば、高潔な理念ではなく、「疑わ
しい存在を検出するフィルタにひっかからないこと」であるように思う。
我々は、どのような「安・健」を確保しようとしているのか? それを考えず
に安全/健康確保に躍起になった場合、人間は、互いに性質の揃った存在と
なる。 均質な存在は、長所でも短所でも明らかに露呈する。 しかし、その
長所や短所はある限られた系の中でのみ成立するものであって、その系に変化
が起きたとき、系の中にいる人間は一斉に(互いに均質なのだから)、「ワケ
の解らぬ存在」と化す。
=====
「系」に限界があることを、我々は知らない。 それなのに、開放された
「系」の中で如何に上手に存在するかも、まだ、知らない。 その我々が日々
行っていることといえば、安全/健康確保のように「系」を区切る作業だ。
幾ら時間が2000年ほど経とうと、ヒトの知性が大きく変質したわけでは
ない。
メモ・020104
投稿者:
まい
投稿日:2004年 1月 3日(土)10時21分37秒
「自由・平等・博愛」とは遠くに光る理想であって、現実のものとすることは
容易ではない。 大革命以来この三語を念仏のように唱えているフランスという
国は現在、それら三語を現実のものにすることができていなくて苦悩している。
団結/組織の重宝さを知っている中華系移民の暮らしぶりと、アフリカ/アラブ系
移民並びに「系」が判別できない新生者の生活の様には雲泥の差がある。 あれ
らの移民の存在は、フランス国のたとえば国勢調査の結果に読みとれる/影響を
与えるものだろうか? 貧すれば窮す。 パリ中心部から北へ北へと向かう列車は
”ゴミ箱”移民居住区へ向かう。 別名、泥棒列車、でもある。
メモ・141203
投稿者:
ばん まい
投稿日:2003年12月15日(月)09時01分17秒
独裁という行為は独りで成し遂げられるものではない。 ある組織において
最も重大な責任を負う立場にある者の行いが制裁の対象になる場合、その組織
で責任者に追随した者らは、裁きを呼び込んだ「罪」の支持者であったことを
痛感すべきである。 独裁者が「正義」の敵であるのなら、独裁者の言いなり
になってきた者もまた「正義」の敵であり、ある種の”チカラ”の庇護の下に
あって独裁を(知らず知らずのうちにでも)支持したことになってしまった
ことを省みる必要がある者は、この世にゴマンと居る。 「大衆などという
ものは存在しない」と確か、福田恒在(旧字の変換出ない)が書いていたこと
を思い出す。 国家組織の中に居るのは、昨日までは独裁者に花を振り回し
つつ讃辞を送っていたというのに、翌日には「自由」などと叫ぶ群衆だ。 誰
も、未だに、自分に降りかかる責任の負い方/果たし方を知らないのではない
か、と、生け捕りの目にあったあるかつての国家元首を眺めて、考えた。
メモ・011203
投稿者:
ばん まい
投稿日:2003年12月 2日(火)09時22分46秒
ものごとには何通りかの「なるように」なる先が用意されていて、その時その時
の「ものごと」への関係者の見解が様々にあるうちの、最も”強い”見解を集め
た先へと転がるのだと仮定してみる。
このようなことをガタガタと言い出したのは、何事かを「変える」という意識を
根拠にした言動の多くは何事をも「変える」に到っていないような気がするから
だ。 嘆かわしい現状を改変するのだという意識よりも、現状を素っ気なく分析
した後に「こうありたい」という”見解”を持って言動活動を行ったほうが、
より長期に渡って活動できるように思う。
「変える」の意識は、愚痴や文句へと収束しがちだ。 「こうありたい」の見解
を見極める努力をして、より好く「なるように」することを目指したい。
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芸とはナニか
投稿者:ばん まい 投稿日:2004年 5月21日(金)23時20分59秒は、作家か職人か/少産か量産か/他称か自称か/突飛か地道か/怪しげか確か
か、といったことを根拠にしているように思えるが、この根拠を精確に記述
しようとすると困難を覚える。 しかし、語は、明らかに異なる使い方をされ
る。
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自分以外の人に読んで貰うに耐える文章を書けるようになろうと思って、先ず
は自分で最も扱いやすい言語によって、日誌めいたものやらメルマガジンを出
してみることにした。 そもそも、「読んで貰うに耐える文章」は、学術論文
にて駆使したかった。
少なくとも仲間内で容易に想像できる内容を、目の覚めるような、明・精・的
の確かさを備えた文章で綴ってみたかった。 何というか、そのくらいの表現
を世に送り出せねば、自然科学はいつまで経ってもミヤコびとから観たアヅマ
びとのように粗野な学域であり続ける、と思っている。
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artiste とartisan の違いは、「芸」と「学」の違いと似ている。 私はやは
り、「学」として多くの人が思いつく事柄を扱って、「芸」と呼んで貰える
表現をしたい。 実は、この頃また、毎日壁を観て生活しているような感覚
---「芸」はきっと、壁の向こうに転がっているのではないか?--を味わって
いる。
『渡辺一夫 敗戦日記』(博文館新社)は、串田孫一の本だ。 編者であるはず
の串田の考えが、余りにも漂いすぎている。 渡辺の「芸」である日記が、
串田本に収まってしまっている。 左右を間違えてサンダルを履いたような
感覚を読後にもたらす本だ。 ひとの「芸」とはきっと、本人以外の者には
複写/伝達が不可能な表現/出力なのだ。
ヘッセの作品中でシッダルタは言う。 "Wisdom cannot be communicated.
... Knowledge can be communicated but not wisdom." art だの「芸」
だのとは、とすると、wisdom と似たものであると考えて、間違いではない
かも知れぬ。