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私見発言掲示板--「ばん まい」が管理・運営しています。
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メモ・「つもり」いろいろ-2
投稿者:
ばん まい
投稿日:2004年12月12日(日)10時18分47秒
*「公共」とか「共存」とか
まぁ、やはり、私の持ちネタには限りがある。 これをどう使うか、だ。
いきなり(というか、いつもか?)自分のことを書き立てると、どうも私は、
決まった投資・投入(内容は様々・カネだったり時間だったり知力だったり)
のなるべくヒトにとって好ましい効果・影響を最大量引き出すことが好きだ。
どのような場合でも、その「引き出」しを目指す傾向があると思う。
ある組織が、組織であるが故に扱えるカネは、世間でのその組織への期待や
常識的なその組織の機能・役割以上のものをもたらすために使ってみたい。
私のような者でも、自分の嗜好や能力に応じて、将来はある投資を回収する
ことを目指して、高い/優れた/好ましい生産に従事できるようにと投資を
受けてきている。 自分の損益分岐点を下げる、もしくは、損益分岐点より
もできるだけ高い/優れた/好ましいところにに据えられる生産を行いたい。
(ここで、過去のできごとには手の加えようがないことがポイントで、
「損益分岐点の引き下げ」は、過去の自分への投資の額/量を減らせるわけ
ではないので、実は、でき得ないことだ。)
「公共」とは、各人の生産における理論上の(というか、理屈の上での)
損益分岐点と現在のその者の生産の状態の開きの部分を指すと思う。
「公共」を強めること。 それによって、自他共に満足することを目指す。
(書いてみてからの感想>>>古くさい理論ではあるな・・・)
「私」に分類されているカネを「公」に使える結果を出す事業へと使う。
(とりあえずここまで)
(メルとして出さなかったもの)
投稿者:
ばん まい
投稿日:2004年11月19日(金)08時04分21秒
国境を越えることになんか全然抵抗のない語学力、コミュニケーション技術を
もって、共同体を越えて取材や連帯が出来る力
=====
ヒトの文化には寛容さに溢れた次の間(玄関の少し奥)があって、そこには
異文化人が寝泊まりできるだけの余裕があるのだと思います。 次の間に居る間
にシゴトを為そうとしたら、確かに語学力やコミュニケーション技術がモノを
言いそうです。
では、マジにそこから共同体を越えてしまうとどうなるのか・・・。 総和と
しては、不寛容がそこに在る、と、感じます。 差別とは違う。 異種のものに
対して、ヒトは、どうもがいても不寛容な(受け入れ難い)のだと思います。
不寛容が家の奥の環境の総和なのであると感じるような場所まで連れていって
くれる人物が居たお陰でそこまで踏み込んだのだ、と思うのですが、この人物
は、しかし、私を寛容さ(=異種のものを相手にすること)をもって自宅へ
あがらせたワケでもないとも思うのです。
「同じ」であるから、家(共同体・文化・表現型も?)の枠を気にせず、自分
が行くところへ案内してしまった、という感じがします。
取材は、次の間に居るほうがやり易いと感じます。 相手の寛容な態度と受け
入れ体勢という環境に居たほうが、取材になる(取材相手を自分と同一視
しないで済む)と思います。
表現型(や言動)が明らかに共同体を越えようとしていると見える場合、文化
の次の間よりも奥に入ると、受け入れ態勢はもうそこにありませんから、表現型
を越えて「同じ」であるのだが、これは取材なのであたかも「同じ」ではない
ような気になっているのだ、という、ちょいとヒネた状況を作り、同時に
その状況について周囲や取材相手に知らせないと、取材シゴトは成立しないよう
に思います。
取材はまだ、マシで、共同体を越えて連帯するチカラというのは、尋常な
モノではないと思います。 越えていった先の共同体へ没入するチカラでは
なく他人と何らかの形で連帯するには、何というか、浮いてる(越えようと
している・越えちゃっている?)者どうしがお互いを認識することから始まる
必要があると感じるので・・・。 そういうことを実現する原動力を、チカラ
と呼ぶか根性と呼ぶか腐らない気力と呼ぶか・・・。
=====
書き足し。
たとえ認識できる「お互い」に気が付いても、実は、連帯は起こらないと思う。
共同体を越えちゃった者が、どうしてまた自ら共同体を形成するかね(笑)?
編集済
「つもり」いろいろ
投稿者:
ばん まい
投稿日:2004年11月14日(日)23時45分53秒
こんなことをソロリソロリとやってゆきたい、と、考えていることをメモして
おきます。 テストでは始めてみているのだけれども、テストの域を越えるには
もう少し、これらにつぎ込む時間をどこかから引っ張ってこないと。 現在は、
休日が続くとこういうことをチラと書く余裕が生じる程度なので。
* Biotech-Pick of the Week
バイオテクノロジイ分野から選んだ週変わりの話題を中心に、少なくともあと
五年・十年の後の環境を睨んだ注目点を紹介したいです。 何のための注目点か
・・・・・
ううむ、そうだな、最大限自分のことを自分で判断・決定できる人間になること
を目指して為すことを見出すための注目点、かな。 ココに出すときには日本語
にします。
* 「公共」とか「共存」という事柄について考えるためのネタ出し
こちらはまだテストすら始めていない。 なにに拠ってネタを出すか、まだ方針
が決まっていない。 メルマガジンの「独自独創」を、このネタ出し目指して
書くことにするかも。
親個体の「報い」について
投稿者:
ばん まい
投稿日:2004年10月31日(日)21時01分47秒
子育てとか、他人の面倒を見ることは、生命にとって、根本的に「アホらし」い
感情を抱くことに繋がる行為なのだと思う。 自分の親を見ていて(そう感じさせた
ことがあっただろうな、と)、自分のことを振り返って(そう感じさせそうなこと
ばかりやってきたな、と)、そう思う。 reproduction という語から受ける冷淡な
感じとともに、そう
思う。
時間と手間とカネをかけても親が報われることがない、と感じさせられることは
多いだろうが、親への報い、って、一体ナニだろうね? 色々あるうちの最も多く
の支持を集めることといえば、子が健康で長生きすること、だろうが・・・私は、
親の個体が(あえてこういう言い方にしてみる)自分で納得することや、ドライに
事実を認識することだけが、その個体への「報い」をもたらすのみ、と思う。
つまり、子を持っていることに納得しているか、バカガキ(私のように)である
ことに納得しているかどうか、子が病死したことを認識しているか、子が殺害の
目に遭った事実を認識できているか・・・によって、親個体への「報い」の有無が
”親本人によって”決められる。
知人のアルジェリア人は、パリで稼いだカネの殆どを本国の親へ送る。 親には
彼は孝行息子なのである。 しかし、パリではこの人物は、同居しているアパート
の家賃は踏み倒す、ひとから借りた金は返さない、勿論貧乏暮らし・・・なので
ある。 でも、どうやら、カネを親へ送るというのがアラブ世界での常識なんだな。
このひとの同居人は、「そういう常識」を持っている人物であると了解して同居
しているようだが、了解は、そう簡単に得られず(闘っているんだな)に居る。
で、アルジェリアの親御さんは(こないだパリへ来て、やはり息子からの大接待
を受けたもので、満面の笑顔であった)、親の報いを味わっている”ことになって
いる”ように見える。 如何であろうか? 「報い」を、他力(この場合はカネ)
によって味わってみる気になるかい?
グレる・引きこもる・蒸発する・殺される・いじめられるなどというように、
親の意のままにならぬ子が存在することも、親個体への報いに繋がるのであると
私は考える。 カワイイ・健康・優秀な子であって報われている、とも言えよう
が、私には、美貌・恒常・区別を称えている、とも解釈できる。 カワイイ・健康・
優秀なことは、実は、感情を満足させるのに秀でており、生命がそこに存在する
ことを納得/認識させることから遠のかせるという性質も持っている。 生命を真
(一生懸命)に尊重するのなら、殺された子や病死した子・蒸発した子・グレた子
も同じく尊重の対象であり、尊重の対象を育んだ(誕生させ得た)ことは、親個体の
仕事(時間と手間とカネの注入)への報いであろう。
生命とは根本が”ジコチュー”な存在であると私は思っている。 事実を如何に
納得/認識するか。 ”ジコチュー”なことに反する(他人の面倒をみるとか他人に
奉仕するとか)ことを如何なる事柄として納得/認識するか。 「報い」は、その
納得/認識の先にあると思う。
autos-nomos
投稿者:
ばん まい
投稿日:2004年10月17日(日)19時22分45秒
以下はメモ。
ヒトに備わっている特に強い性質で、他の哺乳動物とか脊椎動物と異なる(若しく
は、比較した場合にヒトにおいて際立って強い)ものとして、自律からの逃避と
いうことを挙げられる、という気がしている。
自律からの逃避を軸として、逃避に加担する仕事/動きは、効率や利便と結びつく
ものとして把握(大概は歓迎)される。 一方、逃避に反抗する仕事/動きは、
哲学や探求として把握される。
世の中には、自律からの逃避との関連をまだ考慮されていない仕事/動きもある。
これらが如何なる性質/影響を持ったものなのであるかを把握する際に軸となって
いることとは、とりあえず・手っ取り早い・解り易いという理由から、カネである
と思う。 カネを回転させるか否かで、その仕事/動きについて把握しようとする。
自律からの逃避との関連まで考えずに、カネという軸によって判断/決着をつけ
られる結果になっている仕事/動きが多い。 きっといつの時代にもそれが多かった
ことであろうが。
私は、カネ(如何なる事物にも隷属せずに物事の価値を表現できる手段・存在)
という軸の独走にイライラしていたのだが、それを越える/対抗し得る軸について
思いつくこともなく、イライラを募らせていた。 自律からの逃避という事柄は、
まぁ、ものを考える上で停滞していた自分にとっては「新機軸」と感じる。
飽和との闘い
投稿者:
ばん まい
投稿日:2004年 9月 4日(土)22時02分21秒
最近に読ませて/聴かせてもらったことばのなかで気に入っているのは、
「こんなもんだろ」とは言わない(ひと)
というものだ。 私は、ニンゲンは、世話がないのが一番だ、と思っている。
世話がない、つまり、その者ひとりきりにおいてなるべく多くの関連事項が
完結している、とか、なるべく他人に迷惑をかけない、とか、その者の持っ
ている不満(ヒトが持つそれは、対社会という表現であっても己へ向けた
ものなのだ)や卑屈はなるべく小さくまとめられている、という状況を好ま
しいと思うのだ。
「こんなもんだろ」と(は)言わないひと、は、多分、世話がない。 そして、
「こんなもんだろ」と(は)言わないひとは、この世にそう多く居ない。
「こんなもん」とは、満足を指すわけだから、不満が極小状態にある「世話が
ない」ひとは、満足を感じていて、「こんなもん」を見出せているようにも
感じられてここには矛盾があるようだが、そうではない。 「こんなもんだろ」
とは言わない世話のないひとは、満足をどのように自分に受け入れるかで闘っ
ている。
この世に発表するもの、この世に向かって披露するものは、それらを受信する
ひとにとって好ましそうなものにしたい。 つまり、会心の作を自分の外に出し
たいと思う。 外に出すものは、では、会心の作なのか、また、既に外に出ている
ものは会心の作と言えるのかとなると、素直に肯定できない。 正直、幾らそれ
らが大層な労作であろうと、「こんなもん」であることから逃れられないと思う。
最近に読ませて/聴かせてもらったことばのなかで、私には決して言えないと
いうものは、「あなたには会心の作があるのか?」と尋ねた事への
・・・ありますねぇ・・・ありますよ。
というひとことだ。 私にはここで、同じように(内容は違うのだろうが)悩ん
だ末に、「ない」としか答えられない。
どうもありがとうございます
投稿者:
ばん まい
投稿日:2004年 7月30日(金)05時03分41秒
蒔絵職人さん、どうもありがとうございます。
やはり、放っておいたら交わりにくいヒトやモノを「繋げる」ことに携わる時に
大切になってくるのは気の持ちようである、と思います。 切実に「繋げ」たいと
思ったもののみが「繋」がるという気が致します。 それ以外の、実務上の必要
(ものごとを効率よく回転/変化させるため)があって「繋」がっているものは、
もっとドライに、今度は逆に気持ちを頭から抜いた状態で評価したらよいと
思います。
いえ、正直なトコを申しますと、上記の如くでありたいと目下努力している
最中です(また苦笑)。
繋ぐ事の大切さ
投稿者:
蒔絵職人
投稿日:2004年 7月28日(水)02時09分39秒
週末は仕事場を離れて、自由行動させてもらっています。
慣れない鞄や、塗り職人達の技の素材を持ち、建築業界や、設計会社、インテリア家具関係
自分自身が見事な技とほれた工芸の技術を、紹介して歩くのです。そこでは、なれない営業
の言葉は持ち合わせていないので、技に感動したままを、職人の言葉で語っています。
有り難い事に、ものづくりの文化が話題に上がるほど、時間を割いて話が盛り上がります。
またその人たちが、色々な人達(会社ではなく人=話が理解できる人)を紹介して繋いでく
れるのです。企業人も従来の事業展開では現状打開が図られない、企業倫理や精神性のある
仕事がしたい。その様な声を間近に聞くと、漆器の製造で培われた技術は、他分野の皆さん
からは魅力あるもので、期待されている技術である事が判りました。
漆器業界の販売低迷と困惑、漆器にこだわると云うより、漆器のみの市場に頼りすぎていた
業界の失態によるその痛みを、職人が背負ってしまっている。受身で仕事を請け続けた、
漆職人にも問題が無きにしも非ずですが。
けれども、ここに来て、企業人だけではなく、国や行政の担当者にも、大きな変化が見られる
様になって来ました。産地組合主体への手当てや、従来の振興対策では、産地の変化や現状
打開が図られないと考え、個人レベルの試案や取組にも注目してくれたり、支援の手を差し
伸べて見ようとする、傾向が出てきました。
この様な状況下で大切な事は、産地に存在するものづくりの技が持つ魅力や優位性をしっかり
把握し、どの様な所で評価されたり、関心を持たれるだろうか、精査し繋いでくれる所が
必要とされるでしょう。またそれにより成果が出せ、事業と成り得る程の、実業性を伴わねば
なりません。その面では、予算がすでに持たれて政策を執り行う行政機関の直接的支援では、
結果が出にくいのではないかと考えられます。
そこで注目できる事は、イタリアの繊維産地や業界の事例です。
業者間の橋渡し役として活躍している コーディネーター“インパナトーレ”に注目したい。
インパナトーレとはイタリアの織物産地プラートで発祥した職業機能として、各製造工程や
産業の詳細や市場動向などを熟知した上で、商品の企画開発をコーディネートする役を持っ
ているそうです。
日本の場合、系列を大切にした、垂直的な結びつきを大切に仕事をしていると思う。
各製造業の業界が、仲介業者の販売力に頼る中で、市場のニーズが掴めずに、また、こだわ
りの技術を持ちながら、自らが市場開拓困難の為に、混乱を起こしている状況が多く見られます。
その点、イタリアのインパナトーレは、水平的な結びつきを大切にし、その都度の依頼など
に応じて、新たなコーディネートの組合せを考えて行くのであろう。
イタリアデザインの活力も、そこに源があるのかも知れません。
インパナトーレに関しては、門外漢ですので、知識も少い中で書くのも恐縮ですが。
どうもありがとうございます
投稿者:
ばん まい
投稿日:2004年 7月27日(火)05時35分8秒
蒔絵職人さん、拙サイトのことを気にかけて下さり、ありがとうございます。
ご投稿にも感謝申し上げます。
=====
私はこのところ「経済人」よろしく世の中のカネを回転させることに携わって
おります。 この世界にも「技」アリのひとは居るな、と思います。 ところが
確かに蒔絵職人さんがご指摘下さったように、どの業界にも「ブランド・仕様」
といった形骸を重要視することになってしまっているという現象が見出せると
も思います。
横文字で云うところのプレゼンテイション--提示--のやりかた一つでもって、
実に実に短期間の後にあぶく銭を呼び込むことができるのが現代です。 この
状況の形成には、プレゼンテイションを行う者のズルさや卑しさという原動力
があると同時に、そのズルさや卑しさを見抜けない者も多いという要因も影響
していると考えます。
「一億総白痴」と悲嘆することはカッコイイですが、白痴化の解決にはなりま
せん。 ここで我々にスグできることは、これまた蒔絵職人さんのご投稿にある
ように、これは好い、というものごとを自分以外の人に向かって示すことだと
思います。 何故にそれが好いのか、好いと示して何を主張したいのかを共に
出力すれば、”提示”は、単なる口コミやウワサに留まらないでしょう。
自分が何を好きであるのかを自分で判断できるようになることは、「好き」な
ものを見定めることであるというのに、どうも切磋琢磨というか探求というか、
鉱脈掘削のような地道な努力が必要であるだと感じます。 「好き」なものなぞ
ヒョイと見つかると思っていたら大間違いで、ヒトの感情や判断機構の基本は
否定形や消去法なので、努力無しには「好き」なものは見えず、探求した場合
にだけ「好き」なものが見つかると思います。
私辺りはひたすら、精進精進、です(苦笑)。
明治・大正期の技を見て思う
投稿者:
蒔絵職人
投稿日:2004年 7月25日(日)15時01分30秒
今、東京の国立博物館で、明治大正期の工人達が、西洋に日本の工芸の技の粋を尽く
し出品された名品が、一同に見ることが出来るすばらしい展覧会が開かれています。
仕事柄それらの作品の下図や写真などは、日頃から目にしていますが、時下に見る
ことが出来る、貴重な機会と感謝して出かけました。
それらは、凄かった。感動に値する、技の乱舞。
時には、ここまでどうして・・と思うほどの際どい技の押出し。
けれども、ここまで極めれば、いさぎよさの風格も見事です。
戦後また経済成長期、日本の工芸の足取りを見ると、以前とは大きな違いを感じます。
近年、技術よりもデザイン優先の工芸界ではないだろうか。
展覧会芸術という言葉がよく聞くようになって来たのは、やはり戦後かと思う。
他者と比べられ評価される、審査員の目と、ある枠に入るものが、評価された様に
発表される。
これらの功罪は、評論家が論じているので、ここでは云わずに置こうと思う。
けれども、もう一度日本人は、技を極める事に、評価をあらたにして見てはどうだろうか。
私達は、海外での評価を大切にし、海外の名品に高い価値を見ている。
たとえば、アールヌーヴォーを例えると、そこには、日本や東洋から刺激を受けたと
思えるものが、数多く見られる。もちろんそこには、パリ博など万博による、明治、
大正期の工芸交流も盛んに行われた事も、大きかったであろう。
(私は、アールヌーヴォーの作者達や作品は、思想を感じてすばらしいと感じます)
そこでは、日本や西洋の工人の、互いの技に対する尊敬や、それぞれの支援者で
あるパトロン達の、気合も感じるのです。技の交流はあっても、似せたものは
生まれ出されていないし、しっかりと自らの持つ文化で、昇華しようとしている。
日本ではそのものづくりの勢いを足場に、戦後、経済成長を果たしたのではないだろうか。
またそこには、ものづくりのこだわりの文化を経済人も大切にし、育てていたと思う。
それらが希薄と成り始めた頃から、○○○の自信のなさや、舵取りの危うさが現れ始めたのか。
高度成長期以降は特に、海外での評価や、ブランドに高い価値を見出そうとし、
自国のものづくりも、一見して、それと判るブランドを形成する為に、その
「かたち」を大切にしていたのではないだろうか。それは仕様であり、その仕様を
守ることが最重要とした。
私は、そのものを生み出す、技やこだわりの価値を大切にするならば、「かたち」より
そこに時代の流れや変動、思想性も、もっと反映してはどうだろうかと思うのです。
ものづくりの工人は生身の人間です。感情や思想や理想も考えるでしょう。
それらが反映したものづくりを、経済人と言われる人達が、なぜ魅力を見出そ
うとしないのだろうか?はたまた、ゆとりもないのだろうか?
もし、そうであったならば、これからの日本の経済にも期待が持てないのでは
ないかと、危惧を感じざるを得ない。
この頃の経済人の倫理や、野球界のごたごたを生み出す経済人の、人のこころを無視
するがごとき暴言などを目にすると、やはりこの国の危うさを思ってしまうのです。
私達は、ヒューマンで倫理が伴う物事を大切にしたいと思う。
経済は、人に対しての満足感を伴うサービスを大切にし、そこに対価が生まれるもの
ではないか。
話は、ずいぶん離れてしまいましたが、日本人らしいものづくりとして、誰かに
評価が届くような、凄みを見せる技が生まれ、また評価される世の中であってほしい。
とりあえずは、明治大正期の工人の技や気概を見てほしい。
「万国博覧会の美術」 東京国立博物館(8月29日まで)
http://www.tnm.jp/jp/servlet/Con?pageId=A01&processId=02&event_id=4
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投稿者:ばん まい 投稿日:2004年12月12日(日)10時18分47秒まぁ、やはり、私の持ちネタには限りがある。 これをどう使うか、だ。
いきなり(というか、いつもか?)自分のことを書き立てると、どうも私は、
決まった投資・投入(内容は様々・カネだったり時間だったり知力だったり)
のなるべくヒトにとって好ましい効果・影響を最大量引き出すことが好きだ。
どのような場合でも、その「引き出」しを目指す傾向があると思う。
ある組織が、組織であるが故に扱えるカネは、世間でのその組織への期待や
常識的なその組織の機能・役割以上のものをもたらすために使ってみたい。
私のような者でも、自分の嗜好や能力に応じて、将来はある投資を回収する
ことを目指して、高い/優れた/好ましい生産に従事できるようにと投資を
受けてきている。 自分の損益分岐点を下げる、もしくは、損益分岐点より
もできるだけ高い/優れた/好ましいところにに据えられる生産を行いたい。
(ここで、過去のできごとには手の加えようがないことがポイントで、
「損益分岐点の引き下げ」は、過去の自分への投資の額/量を減らせるわけ
ではないので、実は、でき得ないことだ。)
「公共」とは、各人の生産における理論上の(というか、理屈の上での)
損益分岐点と現在のその者の生産の状態の開きの部分を指すと思う。
「公共」を強めること。 それによって、自他共に満足することを目指す。
(書いてみてからの感想>>>古くさい理論ではあるな・・・)
「私」に分類されているカネを「公」に使える結果を出す事業へと使う。
(とりあえずここまで)