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サイエンスと流行歌
投稿者:
ばん まい
投稿日:2005年 9月19日(月)04時26分1秒
吐き気の名盤リストの真似事をやって、気が付いた。 ソウカ、と思っ
た。 もっと色々なリストが浮かんで来る。 吐き気は来ないが眩暈
くらいはしてくる絶妙な二番手の位置に付けているアルバムである
とか、名盤とは思わないが作家の最盛を表現できているアルバムとか
のリスト・・・。
私は音楽もかなり好きだ。 ロックだポップだを聴くことにかなりの
時間を費やしている。 しかし、現状のままの探求の調子では、ロック
をネタにして生計を立てて行けるとは思わない。 仕上げに絶妙な塩味
を必要とする料理が二皿そこにあったとすると、ほんのひと振りの塩
を私は、流行歌ではなくサイエンスの上にかけている。
ただ、ロックだポップだもかなり好きなので、最後の詰めである塩を
サイエンスに振りかけていて流行歌にかけていないことにを認識する
と、イライラする。 もっと流行歌の世界も追求したい。 「この作品
のここの音がミソであって、何故にミソかというとその音がこういう
ことになっているからだ」とか、「完璧なアルバムを残した作家の
カスアルバムのこの辺りは聴きものである」とか・・・とにかく、
サイエンスと同じ程度に流行歌の世界を理解することに時間を使って、
それで生計立ててみたい。
私が生きていることによって表現したいものを表現する時の挙動は、
サイエンスを介していようが流行歌を利用していようが、同じなのだ。
社会学とか統計学とか哲学とか史学、言語学、物理学・・・「挙動」
を支えるものも共通している。 字を書く手が左手か右手かの違いだけ
がある。 左手(サイエンス)を利き手として使っているのだが、
右手も、字を書くことに使いたい。
こんな真似してみる
投稿者:
ばん まい
投稿日:2005年 9月19日(月)01時47分28秒
編集済
この頃の我がHPの様相といえば、journalのらくだ板に、らくだに輪を
かけて好き放題のココ、という具合だ。 今日の好き放題は、ネット
通販Aのサイトにあった「吐き気がするほどの名盤群」の真似。 ロッ
ク・ポップといった流行歌アルバムの名盤と思うモノを挙げてみる。
いち作家につき一枚。
=====吐き気がするほどの名盤群(ばん まい)=====
先月にR. Moog氏が亡くなった報を受けて以来、「鍵盤」キイボオド
型の入力をする楽器が活躍する流行歌を浴びるように聴いている。
好きだなぁ、好きだナァと、聴いている。 これをきっかけとして、
今聴いているものを中心に、今は聴いていないがまた「浴び聴き」
するに値すると思うアルバムをメモしておくとする。
* King Crimson / Red
完璧と重厚という性質が欲しい時に聴く (大音量)
* ELP / Trilogy
何かを突き抜けたい時に聴く
* Van Morrison / Veedon Fleece
自分の内側を整えたい時に聴く
* David Bowie / Ziggy Stardust
何かを諦めつつもジリジリとした主張をしたい時に聴く
* Nirvana / In Utero
このくらいブッ飛ばせなくてどうする?と自問したい時に聴く (大音量)
* Lou Reed / Berlin
視覚からくる情報を拒絶したい時に聴く
* Bob Dylan / Blood on the Tracks
雑念の中に没頭して行きたい時に聴く
* Carol King / Tapestry
ものごとは循環すると再認識したい時に聴く
* Neil Young / Harvest
路にゃぁ終わりがなさそうだと思った時に聴く
* Miles Davis / On the Corner
撃って出るか、という時に聴く
メモ・180805
投稿者:
ばん まい
投稿日:2005年 8月19日(金)08時51分46秒
*学は身を滅ぼす
学は身を助けるどころか、マジメに智を追求したら、身は滅ぶと思う。
世の中には学問と呼べるものに憧れる人は多いようで、そういう人は
智の世界に足を突っ込んで楽しんでいるに見える。 あれだこれだの説
を世に送り出したり他人の説を検証したり比較したりという動作が好き
そうな人は多い。 これは身を助けている程度の智の追求。 保身(生命
維持という意味)が先ずあって、それから学がある。
ヒトはどうも、やりたいことしかやらない。 自分がやっていることは
畢竟自分がやりたかったことなのだろう。 保身そっちのけで智を追求
したくなったら、当然、身は滅ぶ。 実際、まるで智へと生命が転化
してしまったかのような学者はこれまでに居た。 保身を越える興味の
対象となった智は、書き残され、生命の性質を説明する一部となって
いるように思う。
*生き延びてきているわけだ
このところ、食事をとる程度の時間を共有できる他人を目の前にする
と、その人のこれまでの歴史が、知っているわけではないのに知覚
できてしまっているような気がしてしまい、自分で気味が悪い。 殆ど
の人間が各々の歴史を記憶として頭に詰め込んでその場その場に居る
わけだが、語られずとも、その記憶が人物の挙動の上ににじみ出て
いる、その記憶が見えるように感じられてならない。
見えるものは記憶であって、史実や映像ではない。 その挙動の原動力
となるその人の思想や感慨や意志を指す。 自分のことを振り返ると
ドキリとするが、この記憶は大概ドロドロしており、麗しいものでは
ない。 ここがスキッとしている人物は、非常に稀であったが、会った
ことがある、と、思える。 そういう人との邂逅は、私にとっての安楽。
今ビジ書時否
投稿者:
ばん まい
投稿日:2005年 7月 3日(日)16時53分13秒
「今はビジ書の時ならず」と、言いたい。
目が覚めてくる頃から、「innovation makes difference」とか
「庶への投資」とか「do we know how in biotch field」などと
日本の大型書店で店の入り口に平積みされているいるビジネス書の
ようなことばかり思いついている。 まぁ、そういう思いつきを得
そうな方向で考え事をしているので、成果としてはマズマズでは
ある。
ビジネス書があれだけ溢れているということは、ここまでは他人も
考えつくということだ。 ここまでの考えで本を書く努力をして
小金を得ることは、短い人生の中でカネを得ようと思ったら得策で
あると思う。 ただ、あれほど大量に出版がなされるほど、皆が皆
小金を追求してくれなくてもよいのに、とは思う。 本を出すため
のエネルギイを、本に書きたい内容が現実化される件数を増やす
ことに回して欲しいし、自分ではそうしてゆきたい。
学術論文でも似たことが言え、どの時点で自分以外の者からの
評価を求めるかという時期を見定めることは簡単ではない。 今の
シャカイには、評価の手段が限定されているから、サッサと成果
を示せたものが優れているという図式が存在する。 先日の岡本氏
の主張と同じく、真の生き方、つまり、様々な手段よって評価を
してゆくことが日々失われつつある。 図式に則った評価以外の
手段も開発してゆく気でいれば、評価を得るとよさそうな時期が
見定めやすくなると思うし、そのように「alternative」に得た
評価を得た存在が、後にinnovationというものになるのだと思う。
それならどうする?
投稿者:
ばん まい
投稿日:2005年 6月27日(月)03時27分0秒
編集済
岩波書店が会社創立70周年事業として1983年に出した『これからどうなる』
から転載。
岡本太郎 「芸術の将来について」 画家
(全文)
私は”芸術は爆発だ”と宣言している。 確かに、真に生きる人間にとって、
瞬間瞬間が爆発なのだ。 だからこそ芸術は、時空を越えて無限にひらく。
「芸術の将来について」「これからの芸術はどうなるか」という質問だが、
芸術において時間を計算に入れ、将来を考えたり、過去の伝統にこだわった
りすることは意味がないと思う。
しかし、人間社会について考えるとき、運命は一体どうなるのか、さまざま
の思いがわきおこる。 多分これからも科学的・技術的にはいわゆる進歩を
して行くだろう。 だが逆に純粋な人間性、真の生き方は絶望的に転落して
行く、そんな風に思えてならない。
だから芸術が無目的・無条件に、生命の躍動を回復し、いのちを幅いっぱい
ひらくことが、ますます大事になる。
俗に「芸術」といわれる職能的な専門家の芸ごとや、世間的な価値判断など
空しい。 そういう評価や基準を蹴トバシて、真に人間的な、スッ裸の感動を
自他につきつけなければならない。 ちょうど四つ五つの子供が描く絵のよう
に、無条件に、自由ないのちをほとばしらせる。
これからいよいよシステム化され、条件づけられ、パターン化して行く社会
の中で、責任をもった大人が、いかにしてそういう無償の人間的自由を実現
するか。 ・・・・・・それはいわゆる「芸術」ではない、「人間」の根本
の課題である。
==========
微視的(自分の専門や得意と呼べる対象を語る)でありつつも巨視的(その
専門や得意を越えて適用できる内容を語る)である文章、しかも、時間が
経ってしまってから(当該書籍の出版から20年以上経っている)でも生々しさ
が伝わる文章(当時の流行言葉や事件に触れることで当時のみにおいて生々
しいものではない)で書かれていると、面白い、と感じた。
あと、文章と結びつく印象・感覚・直感として、あらゆるものに対する様々な
逡巡や懐疑を経たとしても最終結果としての「根本的にオプティミスティック」
な著者の性質を感じた場合には、その文章が面白いと思えた(「カッコ内」は、
渡辺一夫についての大江健三郎の表現)。
根本的なオプティミスムは、自分は所詮、目の前のニンジンの魅力を追う馬で
あると認識できている場合に湧くヒトの性質であるとおもう。 ニンジン、即ち
喜怒哀楽やら学やら智、社会だの生命だの・・・を語るには、このオプティ
ミスムが必要であるとも思う。 その肩書き、その所属、その経験を表現する
時間や余裕がない時に、どこまで相手や対象に自分の存在を認識させることが
できるか・・・そういう場面で、「馬」の姿のみが自分の存在を示す根拠に
なると思うから、「必要」であると思う。
あらゆる状況に対して「それならばこうする」と対応できるオプティミスト
に、私は魅力を感じる。
それならどうする?
投稿者:
ばん まい
投稿日:2005年 6月26日(日)23時59分44秒
編集済
岩波書店が会社創立70周年事業として1983年に出した『これからどうなる』
という本がある。 当時身近であった人物が446人の執筆者のうちの一であり、
それでガキ様の頃に買って読んだ。 これは、と思う文の(当時の自分の
ネタだったと思われる)掲載ペイジの角が、今もやっていると同じように
折ってある。 その頃から「ああいう」ネタが頭にあったか、と、ははんと
思うと同時に、当時のネタ選びの頭でっかちさ(当該書籍の執筆者に当時、
実に指摘され続けていた!)に辟易する。 「その頃から」と思えるような
ペイジが折ってあって、ほっともしている。
各氏の文章は、余り面白くない。 悪文もなければ大胆な発言もそう、無い。
「新しい技術が」「新しい方策を」「これまでにない発想で」「期待する」
と、将来のことを考えて書いた場合の決まり文句が羅列してあり、そうかと
言って1982年当時の空気(それは、把握・特徴付けしにくいものであったの
かも知れない)が生々しく読める文章も少ない。 科学技術について書いた
ものには、そこでの予見が”当たっている”文章もあったが、当たっている
ことに面白さがない。 当たり予見を書けるだけの根拠が当時、あったの
だろうと思えてしまうからだ。
ばらばらばらと眺め直して、面白いと思えたのは次の四氏の文章で、岡本氏
のものは珠玉であると思えたので、全文をここに打ち込んでおく。 各氏の
肩書きは当該書籍に記載のもの。 姓の逆「あいうえお」順に部分転載。
松田道雄「これからの日本人について」 小児科医
(最終段落)
かぎられた資源を長くつかおうとすれば、なんらかの規制がいる。 もっとも
安易な効率のいい規制は全体主義である。 すでに全体主義体制をとっている
共産世界は、その点からもかわりえない。 人権尊重の立場から自由世界に
とどまる日本人は規制をどれだけ自発的におこなえるか。「繁栄」のもたらし
た生活習慣のなかに、どういう形で禁欲をくみこむかに日本人の将来はかかっ
ている。
小西政継 「登山の分野における革新」 登山家
(これも最終段落)
科学・技術の分野では通信手段として電線に光ファイバーがとってかわるように
革新されゆくが、登山の冒険の分野における革新は、逆により高品質な人工的な
補助用具を一つ一つ身体からとりはずし、人間の力のみで挑む裸の原点にたちかえ
ることにある。
小田実 「”人間の問題”として」 作家
(冒頭段落の終盤部分と最終段落の終盤部分)
・・・当然、「これからどうなる」は「これからどうする」をふくむ。 いや、
もうひとつ言って、「これからどうするべきか」。
「これからどうするべきか」にかかわるのは、そうした(ばんまい註・ホルマリン
漬けになるような肉体として生まれることや虐殺の目に遭うことが「たまたま
自分にこれまで来なかっただけのことでないか」といった)同感(註・コンパッ
ション、とふりがな付き)に基づいた想像力だろう。 あるいは、想像力の名を
持った倫理だ。
岡本太郎 「芸術の将来について」 画家
(別投稿にて全文転載)
東大先端研ジャーナリストセミナー
投稿者:
ばん まい
投稿日:2005年 6月 4日(土)02時38分16秒
今日は、「ジャーナリスト・評論家・東京大学先端研特任教授の武田徹」さん
(ご本人による自称)からの告知を転載します。 武田さんは私にとっての「信用
できるジャーナリスト」です。 告知の内容は、東大先端研でのセミナーについて
です。 拙所をご覧下さる皆様にはご参加頂きたいセミナーですし、参加とまで
行かなくてもこのような企画が世の中にあることを知って頂きたいのです。
=====
●このたび東京大学先端科学技術研究センターで「リスク社会と報道」という公開連
続セミナーを行うことになりました。
●去年のコースが学生やメディア未経験者向けだったのに対して今年は現役ジャーナ
リスト向けと謳っています(とはいえ対象者は、職制的には狭義のジャーナリストと
しての記者職だけでなく、デスクなど編集職やディレクターなど広義に捉えています
し、メディアも活字、映像、出版、新聞云々と特に限定はしていません。組織に所属
しているか、フリーかも問いません。「現役」という自意識があり、ご興味があれば
どなたでもご応募を歓迎します。ただし定員を超えた場合は選考をさせていただきま
す)。
●「リスク社会化」を切り口に、科学技術から政治経済の領域まで、いわば文理を横
断したアップトウデイトなテーマを、それぞれの分野の専門家に講義をしてもらいま
す(社会問題は文系、理系なんて区別なしに起きるわけで、今までの政治部、経済
部、科学部といった組織の縦割りは現状にあっていないのではないかという問題意識
を踏まえたカリキュラム設計をしています)。
●7月2日から、およそ月一回土曜日午後に開講。全8回を通して2万円と、登壇さ
れる講師の方々を思えば参加費は非常におやすくなっている自負があります。各階毎
にまとめが入り、全体として「ジャーナリズムの現在」に関するひとつの見方を呈示
出来ると考えていますので、できれば全回を通じてご出席頂きたいですが、多忙を極
める仕事に就いておられるかたが多いと思いますので、欠席の場合は、機会を無駄に
しないために応募者の推薦で同僚知人の聴講も可能とさせていただいています。
また、テーマに的をしぼった個別の申し込みも空きがあれば受け付けます。
●講義では取材や記者会見のスタイルを取り入れ、聞きたいことを聞きたいタイミン
グで聞けるように配慮するなど、ジャーナリスト向けに特化したかたちで進められま
す。
●組織や、立場の違いを越えてジャーナリスト同士が繋がり会えるようにも工夫しま
す。講師とのコミュニケーションも取れるよう工夫します。
●応募は6月20日まで。
詳しくは
http://anzenansin.org/ouyou.htm
をご覧ください。
●このメールはご興味の在りそうな方や、ご関係するMLなどへも御転送頂ければ幸い
です。
武田徹
******
東京大学先端科学技術研究センター
安全・安心と科学技術人材養成プロジェクト事務局
Tel: 03-5452-5482 Fax: 03-5452-5481 E-mail: anzen@mk.rcast.u-tokyo.ac.jp
130405
投稿者:
ばん まい
投稿日:2005年 4月14日(木)06時53分12秒
こんなことを考えた。
今の今まで、自分以外の信仰対象に没頭しているように見える人々
(やはり宗教者辺り)が、どうして非自己にそれだけ入れ込めるのか
が理解できていなかった。
ヒトはとにかく、もの凄い自己愛を持っていて、色々なキレイゴトは
言うものの、行き着く先は自己満足と自己愛だと思う。 ところがこの
原則に気が付く(または、気が付いたような気がする、とか、原則に
直面してイヤな思いをした、とか)と、今度は、そうスンナリと原則
に則って生き長らえているのも能がないような気がしてくる。
自分以外の信仰対象を持つとか自分以外のもののための役に立つとか、
そういった献身と呼べそうな行為は、ヒトの自己愛の原則に対する
挑戦なのだと思う。 自分の行為の全てが自己愛の結論に結びつくこと
の流れを変える挑戦。 多くのヒトがこの挑戦を頭に思い浮かべつつも
原則を崩せないこととは異なり、格好の献身対象を定められた(また
は、定められた気になった)者は、自己愛の原則に対抗して、自己
納得(とでも呼んでおく)を探す。
ヒトはなかなかイヤラシイ生きもので、多くは、自己愛の原則に留まっ
ている者と自己納得を模索している者を見分けている。 自己納得の
探求に取り組んでいた者を、それで、崇めたり聖人扱いしたりする。
私には「天が二物を与える」ことや「二物を備えて生まれる」ことは
どうも無いように思うので、自己納得に取り組む者は自己愛の原則に
対抗しようというくらいなのだから、崇拝の対象というよりも、どこ
かが欠けている気がしてならない。
今の今まで散々に自己に愛を注いで自己満足を追求してきたので、
他のことがやりたくなってきた・・・のであろう。 さて。 自己納得、
デキルノカナ?
棄てたいもの
投稿者:
ばん まい
投稿日:2005年 3月30日(水)08時04分57秒
国籍と性別を自分とは関係ないものにしたい。 こんなことを、いつ頃からか
考えてきていたようで、最近になって書き出すようになった。
フランス人が、「日本(政府や国立の機関)はさ、会計年度末になると予算の
使い切りをやるんだよね、そうやって使い果たした形跡を残しておかないと、
次年度の予算を削られちゃうからなのでしょ?」「会計年度末になると使いも
しないような機械とか、買っていたよ」「これも税金使い果たし活動の一部
でしょ」などと指摘されると、そういう事実があることを了解していること
と、自分と関係の深い国のことだけに、哀しくて仕方ない。
自分の気に入らないもの(この場合は日本の税金の使い方)を自分の一部と
考えたくないから、「国籍ウルサイ」などと言い出すのかも知れない。 この
気に入らない傾向をどうにか変えようとは、しかし、思わない。 しかも、
国などというものはどこでも似たようなものなので、別国の国籍が欲しい
とも思わない。
メモ-200205
投稿者:
ばん まい
投稿日:2005年 2月20日(日)22時55分53秒
もものごとの評価は、qualitative(質に着目)かつquantitative(量に着目)で
あると、適切に行えるという気がする。 現実では、質か量かのどちらかのみを
重視した評価ばかりであるとも思う。 質・量の双方を一本の論(一冊の論の題、
と考えても構わない)にまとめられたニンゲンはまだ出ていないのかも知れない。
言葉のそれはかなり練られてきているようだが、数値のテツガクはまだ完成して
いない。
「公」とか「共」といった性質の評価についても、どうも現実で「質」重視なの
で、論の骨格に物足りなさを感じる。 物足りなさをトットと埋められないでいる
自分にはイライラする。 また、我々の「質」を重視する姿勢に基づいた「公」や
「共」の評価/判断を充分了解した(了解しているとの自覚の有無は問題ではない)
うえで、「質」(この場合、民族という”結果”への感情とか個人の欲望とか
責任感とか)を便利に使っただけで、実はどこかで「量」の判断を下している
ように見える「公」「共」を謳う行為が、偽善のような雰囲気を撒き散らして
いると感じられ、気になる(多分、私にとっての「善」は、「質」「量」が等分
に揃っている状況/状態/環境/態度/姿勢・・・を指す)。
=====
「個の私性と、それぞれにかけがえのない違いを有する個と個の形成する共同性、
しかし個と個の共同性はアプリオリにありえるわけではなく、個と個を横断する
共通の話題を作って行く言論の成立を前提条件とする。そんな言論こそ、
ジャーナリズムではないのか」と、武田さん(下記サイト)は書いていらした。
http://162.teacup.com/sinopy/bbs
共同性はアプリオリには有り得ないことを強く認識できているなら、「質」も
「量」も注目した「公」や「共」の評価ができると私は思う。 たとえば、現在の
国家間の関係構築といった件では、「質」に準拠した評価/判断は為されていない
と思う。 国家と国家を横断する共同性を構築しようという時の「共通の話題」は、
少々考えた程度の国家の「質」では、準拠のしようがない。 それで、国家は、
どこかで「量」の勘定をしている。しかしその勘定について、どの国も説明でき
ていない。 それで浅はかな「質」を出してきて説明しようとして、偽善を撒き
散らす。 それこそアレントの考えた「質」にまで考えが及ばない。
ニンゲンが今のところ見出している如何なる要素によっても「共同性はアプリオリ
には有り得ないこと」を認識できている者は、もっと頭を使って、「量」に思想
(=ものごとの判断材料としてそれを利用することをヒトにacceptさせる理由)を
与えたほうがよいと思う。 それが過去の「質」への思想を補充し、恐らく現在の
「質」の把握の程度も、もう少し感傷から離れた冷静なところへ持って行けるよう
な気がする。
編集済
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サイエンスと流行歌
投稿者:ばん まい 投稿日:2005年 9月19日(月)04時26分1秒た。 もっと色々なリストが浮かんで来る。 吐き気は来ないが眩暈
くらいはしてくる絶妙な二番手の位置に付けているアルバムである
とか、名盤とは思わないが作家の最盛を表現できているアルバムとか
のリスト・・・。
私は音楽もかなり好きだ。 ロックだポップだを聴くことにかなりの
時間を費やしている。 しかし、現状のままの探求の調子では、ロック
をネタにして生計を立てて行けるとは思わない。 仕上げに絶妙な塩味
を必要とする料理が二皿そこにあったとすると、ほんのひと振りの塩
を私は、流行歌ではなくサイエンスの上にかけている。
ただ、ロックだポップだもかなり好きなので、最後の詰めである塩を
サイエンスに振りかけていて流行歌にかけていないことにを認識する
と、イライラする。 もっと流行歌の世界も追求したい。 「この作品
のここの音がミソであって、何故にミソかというとその音がこういう
ことになっているからだ」とか、「完璧なアルバムを残した作家の
カスアルバムのこの辺りは聴きものである」とか・・・とにかく、
サイエンスと同じ程度に流行歌の世界を理解することに時間を使って、
それで生計立ててみたい。
私が生きていることによって表現したいものを表現する時の挙動は、
サイエンスを介していようが流行歌を利用していようが、同じなのだ。
社会学とか統計学とか哲学とか史学、言語学、物理学・・・「挙動」
を支えるものも共通している。 字を書く手が左手か右手かの違いだけ
がある。 左手(サイエンス)を利き手として使っているのだが、
右手も、字を書くことに使いたい。