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物理の逆襲

 投稿者:まい  投稿日:2007年 7月22日(日)07時50分29秒
  遠隔送電とか塗布可能な蓄電材とか、このところ、「物」が
再び(情報通信や生命科学がもてはやされた時代があった)
世の中に幅を利かせてきているように思う。

今では「物」の製作には、高エネルギー効率とか温室効果
ガス排出量ゼロといった絶対善が味方についている。 利便
や快楽の追求を後押しするという印象が強い情報通信製品
の発展よりも、また、「個の医療」とか「疾病の撲滅」
などという壮大かつヒトのみを対象とした我侭な恩恵を
もたらすことを目指している生命科学製品よりも、目に
見えて触れて使えて、更に「地球に優しい」品物のほう
が強い(生活に必需)という印象を与えるのではないか。

生活に必需である「物」が高効率という性質を身に付け、
更に「地球に優しく」なることを絶対善と思えると同様に
生命科学によって生命は何かということを知った(よう
な気になる)ことにも抵抗を感じないようにはならない
ものかと思う。 どうも生命科学には、その発展に誰もの
賛同をとり付けられるような善質がない。 現行の生命
科学が誰もの賛同をとり付けられるネタを追求していない
か(追求していないとおもう)、ヒトは、生命とは何か
などということを知りたいと思っていないか(思って
いないように感じる)辺りがこの善質の欠落の原因、と
考える。

株の売買をやっている人から時々、「バイオ系の優良株
は何か」と尋ねられる。 カネを儲けようとしての質問で
はあるのだが、バイオなる産業に興味を持ってくれて、
それに投資をしてくれようという気があってのことでも
ある。 こういう興味に応えられない、ということは、
あってはならないと思う。 思う、が、今の(我が)
バイオ産業は、十分に興味や期待に応えられていない
とも感じている。

そんな「物」があったら実に好いなぁ、と思えるもの
を、生命科学業界からも、送り出してゆきたい。
 

仕事のこと-210407

 投稿者:ばん まい  投稿日:2007年 4月21日(土)18時30分26秒
  必要に応じて(ここが最強のポイントで、しかも、わたしはこの
点をほんの少しでもクリアしているのだと信じたい・しかし、実に
「必要」などということがこの世にあるのかどうかは実証できない)、
ものごと(この対象も、先述の「必要」ならびに自分における向き
不向きによって篩がかかっている)を、確立していることになって
いる・大多数が認める・いかに明かなものに見える(ここでの
「・」を使う書き方を弁解すると、これは中島敦も使っていて、
箇条書きにしたい内容を一行に書くとこうなってしまう)内容とは
異なる内容を考えつくことが、わたしには得意のようにおもう。

ただし、ここで「異なる」内容であるものと「単にひねくれた」
内容であるものを思いつくことの差が、先述「必要」を察知できて
いるかどうかで生じてくる。「必要」を察するには、確立している
ことになっている・大多数が認める・いかにも明かなものに見える
考えが何故・どのように・どこから湧いて来ているかを把握して、
把握したことがらの中に「不自然さ」を検出できている、という
前提がある。

(ここから先は、より多くの推測に基いて書く)

「不自然さ」は、たとえばが「無為」の境地のようなところから
感知できる(「より多くの推測」と書いているのは、近頃読んで
いる『老子』に実に便利な考えが満載で、この便利な考えを、十分
な検証をできていないのに使っているとおもうからだ)。

==========
現在、「起業」という言葉が現状で指しているものがヒトの間
でもてはやされているが、これは、成功例を十分に考慮しつつ
成功を目指して成功手法に自分の考えを乗せることを指している。
わたしは、現時点では、それが「成功」へ繋がることや「必要」
に準じているのかも不明、そういう考えを思いつくことに長けて
いやしないか(長けている、と信じたいだけなのかも知れない)。
もし実に「長けている」のならば、現行「起業」に興味が無い
ことは、自分にとっては正常だとといえることになる。

(この間に、多分、もう少し書ける内容があるのだが、まだ
どのような内容だかわかっていないので、書けない)

この世で「カネになる」ものごとといえば、「生き延びたい
シグナル」を増強するものを指す。 わたしはこの頃、この
「シグナル」はみっともないものだと感じてきているので、
わたしが考えるものごとは、どうも「カネになる」ものでは
ない。

「仕事」には、恐らく、いつまで世の中からカネを貰って(貰う
には、「生き延びたいシグナル」に表面的に合意している振り
をする必要がある)、おくとよさそうかを判断してとりかかる
と、よい(よい、というのは、自分が最も楽、という意味)。

自分がやりたいことを仕事にすることを、自分はなにをやり
たいのか解らずに夢想していたが、十分に失敗をして「生き
延びたいシグナル」が徹底的にみっともないと思えるまで
生き延びることを何らかの仕事が支えてくれれば自分が
楽になる、ということが背景にあるだけで、「夢想」は、
実にくだらないものであったという気がしてきている。

「生き延びたいシグナル」については「らくだ板」に書く。
 

まだまだ仕事のこと

 投稿者:ばん まい  投稿日:2007年 4月10日(火)08時59分47秒
 編集済
  今日は夜に映画を観てきた。 Das leben der anderenという作。
わたしにとってこの作は、能力が能力を喰う話であった。

貴重な能力は、他の能力をエサにして存在し続ける。 恐らく、
貴重な能力ばかりではなく貴重な考えや精神、理のようなもの
も、他の貴重な能力や考えや精神・理をエサにして存在し続け
る。

非常にnaif(クドいようだが、わたしは今や、この語を美しい
ものを指す語として使っていない・欠乏を伴ったバカ、くらい
の意味で使っている)だが、いよいよ、自分がエサになる覚悟が
できあがりつつあるような気がしている。 何のエサかがまだ
どうもボヤけている。

下に書いたことはまだ甘い。 趣味の範囲を出ていない。 エサと
しての覚悟が無さ過ぎる。 恐らくわたしは、言論によって何かの
エサになることが適している。 道順は多分、幾つかある。 どの
道を使っても構わないから、ちゃんとしたエサになりたいものだ。

この頃の「定量教」(何であっても、定量した結果が評価の物差し
となっていること)には、対抗せねばならないような気がする。
文章も、もっと上手く(簡潔かつ平易で的確に)書けないといけ
ない気がする。 今の生活場所には到底留まっていられないような
気もする。 頭のどこかで考えているもっと安穏としていたいと
いうサボリ心が、まだ完全に消えていないような気もする。
 

続々・仕事のこと

 投稿者:まい  投稿日:2007年 1月 5日(金)06時29分50秒
 編集済
  「らくだ板」に書いておいたが、内容としてはこちら向きなので
移植した。 先に書いていた「一線超え」が、一歩進んだと思う。
ビジネス界でこなす仕事を、何のための糧にすればよいのかが
見えてきた。 わたしはやはり、蓄財のひとではなく思考のひと
なのではないか(よって、金持ちになってみたくないといえば
ウソだが、どうもカネに縁は薄い)と自分でおもう。

ここから先が移植分=====

自分から社会(他人、ということかな)に対して抱く興味の素が、
この頃になってひとつ増えたような気がする。 ある日突然に興味
がドカンと沸いたわけではなく、ちろちろくすぶっていたものに
ようやく火がついたという感じ。

その「素」というのは、カネの動きだ。 カネを動かすためにヒト
がどのような仕組みを思いつくか、という点が面白い。 何もそれ
らの仕組みが斬新なわけでもないのだが、よくぞそういう仕組みを
(大概は国家単位で)思いつくよ(しかも麗しい根拠をご丁寧に
添えてくる)、と、呆れることができるところが楽しい。

将来、大著(!)にしてみたいこととして、こういった、ヒトが頭
を駆使して考え出したものごと・仕組みは、ヒトの頭など通り越し、
既に自然界に存在している、という考えがある。 生物の思考という
ものがどのように発生するかということを、この説を築き上げる
ことによって見抜けないだろうか。 電気とか分子とか温度とか、
そういうものによる思考制御という論の組み立てにとって代わる
ものとして、自然界によるサブリミナルな「押しつけ・刷り込み」
のようなものを説明してみたい。 誰かがもう論を組み立てつつ
あるのなら、その論の根拠を眺めてみたい。

移植分ここまで=====

実はバイオテクノロジーなどよりも、もっと洗練された「カネ
回転システム=経済」を採用している分野がある。 そういう、
経済理論の応用先として先端的である分野でのビジネスモデル
の成功例が、やがてバイオ分野でも適用されるのであろう。

バイオ以外の洗練された分野で現在試行段階にあるビジネス
モデルがバイオ分野に適用されるとき、恐らく、生命倫理
などというものがコッパミジンに粉砕される。 倫理の崩壊
は、割と大きなパラダイムシフトとなるだろう。 自然への
畏敬の念が、そんなシフトによって蘇ってくるかも知れない。

(書き足し)
多分、D'Arcy W. Thompson "On Growth and Form"は、参考になる。
 

続・仕事のこと

 投稿者:ばん まい  投稿日:2006年11月11日(土)05時33分14秒
  今は、生命科学という不思議の塊に、ビジネスの面から迫って
いっている。 所謂「バイオ産業」に、事業展開参謀(有体には、
事業コンサルタント、か)として携わっている。「ここにこう
売る・あそことこう手を組む・ここにこう応用する・あそこを
こう補強する」ことを、当事者の気持ちを汲みつつ外部の視点
とともに浴びせ、必ず「よかった」と思える成果(金銭上、必ず
しもプラス数値であるとは限らずとも)を得る、ということを、
あらゆる区別(国境・事業種・性別年齢・・・)を取っ払った
環境を設定して、事業者とともに行っている。簡単には、お節介
焼きである。

この「バイオビジネス」界での生命科学(不思議)への興味は、
不思議への解釈の知的な面白さ・快感ではなく、不思議をヒトに
都合のよいように解釈して、その都合の好さの合致具合をカネで
計量した結果に集まっている。 ヒトにとってより都合のよい解釈
を見出した者がより楽しい思いをしており、不思議そのものへの
解釈として面白いかどうかは、この世界では何の基準にもならない。

=====
この「バイオ産業ビジネス」には、「ビジネスモデル」なるもの
が存在していて、それは「商売方法」なのであるが、いかに方法
を確立するかでもって「よかった」と思える成果を得られるか
どうかが決まる。 大概の事業者は、成功例を追いかける。 私は
成功例を追いかける姿勢は持っていなくて、失敗例を気にしつつ
これまで考えられていなかった事例を作り出すほうが得意だ。

この傾向は私の生命科学「研究」においても同様であったので、
恐らく、自分で「これは独自である」と思える時点まで、私は
歩いてゆけるように自分で思っている。

=====
ただ、「これは独自である」という満足感は、吐き気を伴う類の
ものであった。 サルトルも実際にそうであったかどうか、とに
かく、物理的な嘔吐(感)が、私にはあった。 この吐き気が、
越える気にならない一線を提示する。 その先には、どういう形
であれ、何らかの麻痺があると思う。

麻痺は、「マッドサイエンティスト」とか「カネの亡者」という
姿を形作る場合が多い。 宗教で説くように美しく昇華することが
殆ど無い。 哲学や宗教では、その一線の先をうまく言葉や他の
表現で「純粋な存在に向き合う」とか「何の区別も無いところへ
向かう」とするが、これを私は実感していない。 少なくとも、
暴走した学者や拝金者が、その「域」に達しているようには見え
ない。

=====
生命科学という不思議の塊に、ビジネスの面から迫るにあたり、
拝金に陥ることなくこの一線を越えてゆかねばならないか、と、
これを書いていて、思えてきた。

超える方針で行くなら、超えた後はどのような姿になることを
目指すか(目指す姿がないと、「マッド」に陥る)?

吐き気の手前で止めて生命科学の「社会論」に突入するより、
ここで一線超えをして、そのことについて「社会論」として
まとめるとよさそうな気がするのだが(笑)。

・・こんなことは、P. F. Druckerがもう、やっちまっている。
(こうして先人は到達点を示してくれるが、その先というものは
本当に見えないのだ。だから、先人の存在にはガッカリする。)

では、その先は何か。
続く。
 

仕事のことを書くかな

 投稿者:ばん まい  投稿日:2006年 7月 9日(日)01時50分58秒
  日本では、「プロフェッショナル」とか「フロントランナー」とか
いう語をタイトルに使った、仕事人紹介のテレビ番組や新聞雑誌記事
が目に付く。 フランスには(恐らく、まだ、なのだろう)こういう
ものは少ない。

これまで何度か書こうと思いつつ書き出せないでいた仕事のことを、
この頃更新が鈍っていたこちら、こうるさい方の板に書いてゆこう
と思う。 書くことで意思や方針・現状の確認をすることが自分に
向いているし、意思や方針・現状は常にその明確さや合理(自分に
無理が無いものになっているかどうか、ということ)性を確認する
必要がある思うためと、あと、いよいよ自分は何者・何事かの
「追随者」の性格を(望んだとおり)薄めつつあると思えたから
という気がする。 テレビ番組も、先述のようなことを考えている
自分には刺激的であった。

=====
仕事のことを書く、となると、下手をすると自分の半生記を書く
ことになる。 「下手」をやらないように、懐古をするのではなく、
ナニを目指しているのか・そのためにナニをやっているのかを
中心に書いてゆくつもりでいる。 そう書きつつ、昔話から書き
出す。

=====
ここで語ったことが記録されて残る、という時に、「私は生命
が何かということを知りたい」とブチあげたことがある。
大層なことをしてしまったと思うにしては、それしか言いよう
が無かった、と、いまだに思う。

生きているとはいかなる現象で、命とはどのような性質の
ものであるのか知りたい---これが、私が「頭を使う」ことへの
原動力だ。 よって、自分の「仕事」も、この欲求に支えられて
やることになっている、と思う。

こういう根底を保ったまま、来る2006年7月15日には、武田徹
さんの備忘録で告知のあった「第五十回科学技術社会論研究会」
なる会合に出かける。 ここで、「専門」を書いて提出する機会
があった。 これまで同様に自己紹介に迷うかと思ったら、割と
すんなりと「専門」の欄を埋めた。 ご専門、という欄に、

生命科学(研究・ビジネス・ここに社会論を加えたい)

こう書いた。 会の参加者名簿ではこれがそのまま転載されずに
「生命科学(研究・ビジネス・加えて社会論)」と、された(
この欄の記述一発で自己紹介を行おうと思っていたので、残念)。

自分の根底にある欲求が何せアレ(先述)なので、実験研究だけ
続けていても、商売だけ続けていても、論じ続けだけしても、
なかなか「知れた」気にはなれないので、私は自己申告した通り、
生命科学というネタを、あらゆる調理器具を使って料理している。
料理している気でいる。

料理は、恐らく、どの調理法が最も適するかを見定めるために
色々とやってみている、と感じる。 「どの調理法が」ではなく、
「あれもこれも駆使してやっと喰えるようになる」のかも知れ
ない。 私は、自分の何かが周囲の大勢と異なることにそう恐れ
を感じないので(恐れ皆無ではない)、こういう、「あれもこれも」
試す必要のある、したがって周囲の大勢と異なる性質を集団の中
で放つことになりがちな生活に耐えられる。

ざっと自己紹介した後は、今の今やっていることと、そこから
狙っていることを書いてみる。
 

三題

 投稿者:まい  投稿日:2006年 5月 9日(火)02時18分11秒
 編集済
  *テレビカメラの前で謝ってみせること

日本で目立ったことふたつのうちの一。 何か不祥事が発覚すると、
記者会見を開いた際に頭を下げ、それが全国的に放映されることに
よって映像の受信者に向かって謝っていることにしている不思議な
習慣。

手前どもの「謝罪放送」を自腹で行わずして、何が謝罪なのか?
新聞紙面を買収して頭を下げている写真を出すならばともかく、記者
会見で頭を下げられても、場違いだ。 何を誰に謝っているのか
ニュウスで眺めて、さっぱりワカラン。 放映する放送局も放送局
だ。 ひとが頭を下げることにニュウスとしての価値があるのか?
特定の者(ら)の謝罪を放映してやることで、自分たちの如何なる
役割を主張しているのか?

*生温すぎる個人情報管理

「へるしあ」とかいう商品のテレビ宣伝を眺めて、びっくらこいた。
職場の同僚と思しきオトナ二人が、健康診断の結果を見せあうのだ。
それで、体脂肪率だったか血糖値だったか、その商品が標的として
いる健康診断指数のうちのひとつが低下していることを喜び合う。

健康診断の結果をはじめとする個人情報の管理は、自分で行うもの
だ。 自分で行わない限り、誰も管理してくれない。 それを堂々と
見せ合っているのが宣伝映像の一こまに挿入されていた。 その時の
検査がたとえば癌や性病だったら、この映像の作家は、どうするで
あろうか。 宣伝のやりかたや、ものごとを表現するという行為に
おける最低限のルールへの思慮がなさ過ぎる。 作家にも、放映主も、
観て何とも思わない者にも。

*形(仕組み・システム)や教育に先立つ現象を掴め

本や音楽ディスクのネット通販で「あまぞん」を使う。 ここでの
「あまぞん」利用者による商品への評価が面白い。 その評価を読んだ
何人のうち何人が「その評価が役に立った」と投票している、という
数値が出ていることと、寄せられている評価の内容との連動が面白い。
「役立った」点数の高い評価文には、文章の味わいや内容において
優れた(読んで気分が好い・すっきりと上手に書けている・真実味が
上手く表現されているなど)ものが多いと感じ、その面白みを
醸し出すことは「ジャーナリズム」だな、とも感じた。

「ジャーナリズム」のための仕組み・システム(Ohmy Newsは遂に
エコノミスト誌にて紹介された)や人材の育成が語られる世の中
になった。 何も「ジャーナリズム」だけではない。 「バイオ
ビジネス」でも同様に、その活動のための仕組みと人材育成が盛ん
に語られている。 美しく真摯で大切な努力が、そこでなされている
ことと思う。

だが、肝心な「ジャーナリズム」や「バイオビジネス」は、その
努力が注がれるところとは別所で、ひっそりと、しかし鮮明に強烈
に発生・自生しているのではないか? 私たちはそれを「ジャーナ
リズム」「バイオビジネス」と呼べていないだけであるような
気がする。  概念構築にも増して、現象を、現象を、現象を、把握
しよう!!!!!
 

雑記(かなりデムパ)

 投稿者:ばん まい  投稿日:2006年 4月 5日(水)21時58分45秒
  *地球の要素

地球上に居る各国人(各民族でも何でもかまわない)はそれぞれ、
地球(人)の要素の一に過ぎず、各要素を統合したらやっと、
余所(の天体)から眺めて地球と認識できる姿になるのではない
だろうか。

異なる個体は物理的には統合・融合することができないので、
心情の上なり経験の上にて統合・融合できると、ひとりの人間
(別にこれが植物だろうが機械だろうがかまわない)において
であっても「地球的」な格(のようなもの)を備えることが
可能になるかも知れない。

様々な要素(それは国・民族・人種・性別・・・であって、普段
は区別・分別して考えられている)を備えた、そして同時にその
要素には属することのない、しかし、最低限「地球」という属性
を身につけた生命というのは好いな、と思った。

*「次」は無い

どうも私は、何事においても「どうにかなる」と考えているものの、
「次がある」とか「また出くわす」とは考えたことがない。 「将来」
については考えるが、「似たような次回」とか「やりなおせる機会」
は、頭に無い。 成功ばかりしているから、ではない。 ひとつひとつ
の事柄を、かなり独立したものとして捉えているのだと思う。
 

お久しゅうゴザイマス!

 投稿者:まい  投稿日:2006年 2月 2日(木)06時05分28秒
  ええ、はい、あの、その、留年した(笑)「ばん まい」とは、
当方のことでございます。

ちびー! うんうん。 とっても気が利く、やさしい人でした。
お越し下さってどうもありがとう。 いかにも当方らしい(何も
変わってないよコイツと笑われそうです)堅いところへお出で
下さいました(苦笑)。 拙HP(下記)のリンクペイジから、
同じく稲荷前でアホな時間を一緒に過ごした「ろしーた」の
ペイジにも行けるよ!

元気にしていますか? しているね、きっと。 えへへ、何か、
ハズカシイね! 書き込みして下さってどうもありがとうね。
http://pws.prserv.net/maiban/nihongo.html
 

もしかして

 投稿者:ちび  投稿日:2006年 2月 1日(水)19時54分25秒
  美術館のページから偶然、やってきました。
もしかして、I県T市稲荷前で同じクラスだった
ばん まいさんですか?私はその頃、ちびと呼ばれていた
者です。今は東京で暮らしています。
人ちがいだとイケナイので今日はこの辺で。
また、来ます。
 

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