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私見発言掲示板--「ばん まい」が管理・運営しています。

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雑記-040708  投稿者:ばん まい  投稿日:2008年 7月 4日(金)20時42分47秒
  上海・東京・ソウルを巡る機会があったお陰で、文化(というか、
「文」というか「智」というか、civilというかcivilisationと
いうか)について考え直すことができた。

文化をここではやはり、意識、とでも書くとする。

ひとの持つ意識は刻々と変化する。 しかも、自分ひとりのこと
だけを考えるに留まらない方向へと変わってゆくものなのでは
ないか? この方向の変化を「文」化と呼ぶとなれば、文化の語
の使われ方に今以上に納得できる部分が増える。

体裁と自身を保つことに情熱を傾ける、という、未「文」化
(この表現を、生物学での未分化という語の存在に準えると面白
い)な状態にある人間には、現存する生命以外に重要なものの
存在が見えていない。 歴史(という概念、でもよい)や表現(
芸術、でもよい)などが、「現存する生命以外」のものにあたる。

現存する生命(そこに自分が含まれる)以外に重要なものも
ある、と実に考えることができるようになると、体裁や保身の
勢力が弱まる。 こうなると今度は歴史や表現に勢いが付き、
ヒトが自分らについて知り、自分らの紡ぎ出してきた表現を
大切に扱ったりより適切に行うことが可能となる。

=====

アジア各国を訪ねて、「お人好し者」の目指しているもの(「文」
化のバランスをとること)と「お人好し者」の指す「文」化の内容
(先述)について考えがまとまり、そして、そもそもとなる「お人
好し者」の存在を(自分において)体感できた気がした。

私にとっての「お人好し者」として、知人友人ではなく、渡辺一夫
と、渡辺がユマニストと呼んでいた人物を挙げたい。 そのユマニ
スト達には、「お人好し者」に比して自身を投げ捨てすぎていた風
があるが。

=====

今を遡ること12年ほど前にフランスにやって来たとき、私には、
フランスでの体裁を気にしなくてよいことの多いことと、自身を
保つことにのみ躍起になっているわけではない場面に多く遭遇
することが心地よかった。 日本には当時、その心地よさがなかっ
たとおもう(今は、12年前よりも「心地よく」なってきている
と感じた)。

これまで心地よい思いをしてきたのだから、今後は、より多くの
ひとが同じような心地よさを味わえるよう努めるか、心地よい
状況にあるからこそできることに取り組んでゆかなければと思う。
自分では、自分の感じる心地よさの普及に努めるよりは未踏の地
(智)の開拓に取り組んで、「文」化の先の一端を示せるよう
でありたいと願っている。

偉そうなことを書き連ねているが、アジアツアーでは、行く先で
嵐を呼んでは疲れることもあり、これらは、他者の支持に支えられ
た確信のもとに書いたわけではないことも白状しておく。 ただ、
他者の支持こそなけれども、反発を得たことで自信をつけたことでは
ある。
 

メンテナンス中  投稿者:ばんまい  投稿日:2008年 6月22日(日)20時41分23秒
  投稿が無いから各記事の中に広告を出すとかで・・・
広告回避のため、メンテナンス投稿をします。 そんな
モンですかねぇ・・・レンタル掲示板・・・。
 

lifetechnologieproduct-2  投稿者:ばん まい  投稿日:2007年12月21日(金)00時02分9秒
  「らくだ」に先ず書いたネタだがこちらに移植。クドい話は
こちらで展開する。

あちらこちらで書いたように、大衆音楽「プロダクト」の作家
にRubinという人物がいて、このひとは(大それたことを言う
が)、よい(最も深く肯定できるという意)仕事をしていると
いう点において目下のわたしのライバルなのだ。 そのひとが
大手レコード会社(レコードというか、音楽娯楽というか)
の執行役に就いたという。 ニュースが飛び交っていた時期に
は他人のことなぞ気にしている時間がなかったので、今頃に
なってこの人事のことを知った。

http://www.nytimes.com/2007/09/02/magazine/02rubin.t.html

「レコード会社」というのはSony BMG傘下のColombiaのことだ。
Sony BMGにBertelsmann AGが50%の出資をしていることが面白い。

企業の挑戦として、私はこのRubin引き抜きを非常に高く評価し、
人事の結果では世に出回る音楽製品の質の向上を期待する。
Rubinには、Rubinの考える「よい」音楽製品を世に出すことに
これまで以上に濃く深く鮮やかに働くよう、期待する。

=====

以下、メモ。

*品・作を名品・名作としている要素・条件の絞り込み(製品を特定せよ)
*人間関係は「潜熱」が介する(カネは二の次)
*信用はゼロだが、機会はある、道具もある(やれ、ということだ)
*だから、何なのだ(これが無ければ御前はアホじゃ)

=====

実に不動なのは、「先へ進むしかない・後戻りができない」と
いうことだ。 これ以外は全て不定。

GOLEMは、面白いことを言っている。 知性を宿してしまった
生きもの(著作の中ではヒトを主に指している)の「先へ進む
しかない・後戻りはできない」状況での選択肢だ。

旅人(ヒト)は岐路に立つ次のような道標を見つける。 「左
へ行けば首を落とす。右へ行けば死ぬ。後戻りは不可」

この言で、「首を落とす」とは、「狂う」ことに近い。 「死ぬ」
とは、「肉体が消滅する」ことに近い。 後戻りできないため、
岐路に停滞(作中では「不毛な失意のうちに停滞」とされている)
という選択肢も挙げられている。

ここで先読みしてイカンのだが、「般若波羅蜜多」は、狂っても
みたし死んでもみたし停滞してもみた末の境地なのであろう。

GOLEMの挙げた選択肢についての「だから、何なのだ」は、「
paramita」だけか?! リクツとしては、paramitaで「不動」の
設定も消せるけれどもね。 ちょっと、小手先で消せているだけ、
という気がするよね。

解っているところまで到達したことはもう了解できている。

誰にも想像できないことをやれば
誰にも想像できないことは起こるだろうし、
誰にも想像できない状況になるのだろう。
 

(let's) GO-LEM  投稿者:ばん まい  投稿日:2007年12月19日(水)08時09分4秒
  絶学無憂(『老子』第20章)という説に「そうだそうだ、その
通りだ・・・唯と阿と相い去ることいくばくぞ・・」などと
同意することに苦はなかった。 しかし、この説を肯定するには
わたしはまだ考えが足らぬという気がする(当然だな)。

学=知とは何か。 追求したところでどうにもならんと了解した
なら老子に頷けようが、まだまだ追求途上、いやいやまだ何も
考え始めていないうちに憂いにばかり気を病むなヨ、小心者。

レム (Stanilaw LEM) というひとの作品への書評を読むまで、
「器や環境が発想を縛る」ということを打ち破ってみたいという
気がなかった。 いよいよ歳をとってきたら「自己」「御自分」
様がナンボのものと思えるようになってきて(よかった)、
そのナンボのものを超越しているものを眺めてみたくなった。
超越の度合いが大きいほど面白い思いができそうだ。

「天才コンピュータ」GOLEM (General Operator, Longrange,
Ethically Stabilized Multimodelling)が人間に向かって垂れた
講義録『GOLEM XIV』を読んだら、これまで生きものばかりを
眺めていた頭の頂にパコンと窓が開いてぴよぴよ(でも、また
トリかい)して来た。 GOLEMは、こんなことを言う。

<進化>は<知性>に達しかかっている創造物の手綱をまだしっかり
と締めつけているのだということを知っている者にとって、愛
が何の役に立つというのか。 そのことを知っているから私(GO
LEM)には愛はなく、それを持とうとも思わない(後略)

ヒトが、生命という枠を取り払って想像したつもりになった
ことをどの程度まで記述できるのか、この本で読んでみたかっ
た。 わたしの想像力の貧しさも手伝って、「枠」は、チラり
ホラりと外れかかった気にさせて貰ったように思うが、明かに
外れるとは感じられず(無理なのか?)、外れ得ていないこと
を記述技術にて隠されてしまっていた印象が残った。

(やや話が飛ぶが)近頃の「システムバイオロジー」の内容
の貧しさ(単にマシン使って各種スクリーニングの高効率化を
やってみたいだけなのか?)とともに、学界の暢気ぶりが気に
なる(もっと面白いものを読みたいんだよ!)。 生命の枠を
チラホラとでも外す記述は、学界から発されるものとどこかで
期待していた。 甘かった。

(多分、続く)
 

潜熱の記憶  投稿者:ばん まい  投稿日:2007年11月20日(火)07時21分15秒
  仕事をもの凄いスケジュールでこなしており、夜になっても頭
が冷めない。

=====
吉本隆明の「追悼私記」を入手して貰い、ありがたく読んだ。
この中に遠山啓への追悼文があり、なかなかよかった。 何が
よかったかといえば、「潜熱」としての学問を、遠山の姿を
描くことにより語っていることだ。

戦後に東工大で遠山の特別講義があったこと、それを「むさ
ぼるようにして」聴いたことで「潜熱」を感じたこと、「潜
熱」を感じることで「落ちこぼれ」が「拾いあげ」られた
ことが書いてある。

この課程を踏まない限り、「頭のいい坊ちゃん」への卑屈は
剥がれ行かないし、「落ちこぼれ」が「生きてみようかと
いう微光」を自分の中に認識することはない。 そして、
この「潜熱」を感じた者だけが、学問を、ヒトの肉体から
離して大切にすることができるのだとも思う。

少し前に、ワトソンの著書を紹介する記事が経済紙に出た。
学術賞を受賞してから10年くらい後の、爽やかに笑う姿を
とらえた大きな写真が添えられている。 余りに晴れやか
な写真だもので、私は、机に記事を置いたままにしている。

この晴れやかさは、学者の偽ニンジンだ。 あんな風に笑って
みたい気をどこかに抱きつつ、間違っても晴れやかに笑うため
のものではない学なるものを目指す。

「潜熱」は、ヒトが生んだものではないのだと思う。 ただ、
ヒトに憑くことはできる。吉本の本の遠山のページには、メモ
を書きつけた。

ひとはそれ程おもしろいものではありません。 ひとをはなれた
物理や生命は、とてつもなくホンポウに考えることを受け止め
てくれるのでおもしろいのです。

何らかの表現手段によって、「潜熱」を伝えられる者ではあり
たい、と思う。 誰が受け取ろうと構わない。 伝えるには、
常々そいつについて考えている必要があるようだ。
 

メモ・211007  投稿者:ばん まい  投稿日:2007年10月22日(月)06時44分43秒
  こういうことを公の場で書くというのもどうか、と思うが
続ける。

自分が支持すること・指示すること・推奨することが
自分以外のひと・ものの変化をもたらす原因となる、という
事例が生じるようになってきた。 こういう事例を幾つも生じ
させることが当然である役職はあると思うのだが、そういう
役職が扱う事例は、大概の場合、絶対善の内容に従っている。

絶対善が揺らがない方向へのひと・ものの変化をもたらす
原因が自分にある、というひとはこの世に居る。 私がここ
で「どうか」と思いながらも書きたいのは、そういう絶対善
に従わない、つまり、それが一般的・大多数の認める善悪に
基づかないで下される判断についてだ。

私の善悪基準に基づいて下す判断によって、私の示した方向
へと他人・他事が動くという事例が増えてきた。 自身へ
もたらされる影響がこの判断の結果何も生じないわけでは
ないが、この手の判断の善悪基準は、私の身の上を考えた
末のものではない。 判断を売り物にしている裁判官とは
こういうものを売っているのか、と思う。

売り物として売っているのならまだ公正(判断の誤りを
追求する手段や基準がある)と言えよう。 売り物として
売ったわけではないのに判断を下して、その判断が何らかの
変化をもたらすという場合、どうやって判断の誤りの責任
を負えばよいのか。 判断が誤っていたと私が思えた場合に
何が誤りの代償になり得るのか。 どのように誤りを修復する
のか。

数々の判断は、自分の判断能力を鍛えるために下している
わけではない。 自分の善悪基準を自分以外の身の上に転用
することを認めるからそういう判断を引き受けるわけだが、
転用の誤り(これは依頼者と責任を折半する)と判断の
誤り(これも依頼者との折半か)が生じたらどうするのか。
また、その依頼に契約書も無いというのに、折半が成立
するものかどうか。

他者・他人への判断の転用などというものは、恐らく、やらぬ
が一番なのだ。 私が何と言おうと私と関係の薄いものは
不動であればよいのだ。 今の今まで私はそういう態度で居た。

それがこのところ、他人他事のための判断をしていると
ふと気が付いた。 明かに私が言い出してお節介で判断して
聞かせてしまったこともあれば、気が付いたら判断が迫って
いたと思えるような場合もある。

とてつもなく未熟なことを書いていると思う。 しかし、
誤判断の際の責任の取り方を想像出来ていないのに方々へ
判断を垂れ流すのはイカンので、こういうことを書いた。

誤りが検出できた場合、その判断での状況と同じ状況
(お節介だったらお節介で、頼まれたのであれば頼まれて?)
と手段(語ったか書いて渡したかなど)で誤りを明かにする
ことが必要で、誤りの修復には労働?であったり金銭であったり
正誤(なるべく善悪も)を生じないものを充てるしかないか。
 

メモ・雑記  投稿者:まい  投稿日:2007年10月 8日(月)12時17分7秒
  仕事をしない週末を過ごして、久しぶりに頭の中の整頓が進んだ
ように思う。 これを「らくだ」に書こうかとも思ったが、余り
眺めるひとが多くないであろうこちらに書いておくことにした。
今朝は日の出よりも早く目が覚めてしまったので(心情としては
もっと寝ておきたい)、こんなことをやっている。

*聖域と感じられるところを求めるような旅をしたい

風景が整っているとか自然が豊かということの他に、「きれいだ」
と感じる場所がある。 こないだ行った京都某所はそのひとつで、
その場所にいると、エヘラエヘラしていても焦らない。 もう少し
そういう場所を見つけ出したい気がする。 アイルランドにはある
ように思う。

*喰うこと

楽しみであると同時に勝負たり得る食というものに、今後は、前菜
二種・主菜一種・甘味一種のスタイルで挑戦して行きたい。 挑戦
とはこれまた大それたもの言いだが、食べものといえばエサか血肉
のどちらかだとこの頃思っているので、自分にとっては大仰でない。
食事に形式を与えたくなったとは、面白い(禅で食に形式があること
の意義が理解できるかも知れぬ)。

*そのことごとに集中していないものには触れたくない

連絡があって夕食時にひとに会ったが、眠そうであったことがすごく
いやだった。 私に対してシツレイだと憤慨したのではなく、そういう
風に「ひとに会う」ことに集中できていない人間を眺めるのがいやで
あった。 もう少し何にも動じないようにならねばと思う。

*「その他」が解らぬ科学屋に何の仕事ができる

人文系の書籍の取り揃えが充実している本屋を指摘できない者を
自然科学者とはもはや認識できない。
 

物理の逆襲  投稿者:まい  投稿日:2007年 7月22日(日)07時50分29秒
  遠隔送電とか塗布可能な蓄電材とか、このところ、「物」が
再び(情報通信や生命科学がもてはやされた時代があった)
世の中に幅を利かせてきているように思う。

今では「物」の製作には、高エネルギー効率とか温室効果
ガス排出量ゼロといった絶対善が味方についている。 利便
や快楽の追求を後押しするという印象が強い情報通信製品
の発展よりも、また、「個の医療」とか「疾病の撲滅」
などという壮大かつヒトのみを対象とした我侭な恩恵を
もたらすことを目指している生命科学製品よりも、目に
見えて触れて使えて、更に「地球に優しい」品物のほう
が強い(生活に必需)という印象を与えるのではないか。

生活に必需である「物」が高効率という性質を身に付け、
更に「地球に優しく」なることを絶対善と思えると同様に
生命科学によって生命は何かということを知った(よう
な気になる)ことにも抵抗を感じないようにはならない
ものかと思う。 どうも生命科学には、その発展に誰もの
賛同をとり付けられるような善質がない。 現行の生命
科学が誰もの賛同をとり付けられるネタを追求していない
か(追求していないとおもう)、ヒトは、生命とは何か
などということを知りたいと思っていないか(思って
いないように感じる)辺りがこの善質の欠落の原因、と
考える。

株の売買をやっている人から時々、「バイオ系の優良株
は何か」と尋ねられる。 カネを儲けようとしての質問で
はあるのだが、バイオなる産業に興味を持ってくれて、
それに投資をしてくれようという気があってのことでも
ある。 こういう興味に応えられない、ということは、
あってはならないと思う。 思う、が、今の(我が)
バイオ産業は、十分に興味や期待に応えられていない
とも感じている。

そんな「物」があったら実に好いなぁ、と思えるもの
を、生命科学業界からも、送り出してゆきたい。
 

仕事のこと-210407  投稿者:ばん まい  投稿日:2007年 4月21日(土)18時30分26秒
  必要に応じて(ここが最強のポイントで、しかも、わたしはこの
点をほんの少しでもクリアしているのだと信じたい・しかし、実に
「必要」などということがこの世にあるのかどうかは実証できない)、
ものごと(この対象も、先述の「必要」ならびに自分における向き
不向きによって篩がかかっている)を、確立していることになって
いる・大多数が認める・いかに明かなものに見える(ここでの
「・」を使う書き方を弁解すると、これは中島敦も使っていて、
箇条書きにしたい内容を一行に書くとこうなってしまう)内容とは
異なる内容を考えつくことが、わたしには得意のようにおもう。

ただし、ここで「異なる」内容であるものと「単にひねくれた」
内容であるものを思いつくことの差が、先述「必要」を察知できて
いるかどうかで生じてくる。「必要」を察するには、確立している
ことになっている・大多数が認める・いかにも明かなものに見える
考えが何故・どのように・どこから湧いて来ているかを把握して、
把握したことがらの中に「不自然さ」を検出できている、という
前提がある。

(ここから先は、より多くの推測に基いて書く)

「不自然さ」は、たとえばが「無為」の境地のようなところから
感知できる(「より多くの推測」と書いているのは、近頃読んで
いる『老子』に実に便利な考えが満載で、この便利な考えを、十分
な検証をできていないのに使っているとおもうからだ)。

==========
現在、「起業」という言葉が現状で指しているものがヒトの間
でもてはやされているが、これは、成功例を十分に考慮しつつ
成功を目指して成功手法に自分の考えを乗せることを指している。
わたしは、現時点では、それが「成功」へ繋がることや「必要」
に準じているのかも不明、そういう考えを思いつくことに長けて
いやしないか(長けている、と信じたいだけなのかも知れない)。
もし実に「長けている」のならば、現行「起業」に興味が無い
ことは、自分にとっては正常だとといえることになる。

(この間に、多分、もう少し書ける内容があるのだが、まだ
どのような内容だかわかっていないので、書けない)

この世で「カネになる」ものごとといえば、「生き延びたい
シグナル」を増強するものを指す。 わたしはこの頃、この
「シグナル」はみっともないものだと感じてきているので、
わたしが考えるものごとは、どうも「カネになる」ものでは
ない。

「仕事」には、恐らく、いつまで世の中からカネを貰って(貰う
には、「生き延びたいシグナル」に表面的に合意している振り
をする必要がある)、おくとよさそうかを判断してとりかかる
と、よい(よい、というのは、自分が最も楽、という意味)。

自分がやりたいことを仕事にすることを、自分はなにをやり
たいのか解らずに夢想していたが、十分に失敗をして「生き
延びたいシグナル」が徹底的にみっともないと思えるまで
生き延びることを何らかの仕事が支えてくれれば自分が
楽になる、ということが背景にあるだけで、「夢想」は、
実にくだらないものであったという気がしてきている。

「生き延びたいシグナル」については「らくだ板」に書く。
 

まだまだ仕事のこと  投稿者:ばん まい  投稿日:2007年 4月10日(火)08時59分47秒    編集済
  今日は夜に映画を観てきた。 Das leben der anderenという作。
わたしにとってこの作は、能力が能力を喰う話であった。

貴重な能力は、他の能力をエサにして存在し続ける。 恐らく、
貴重な能力ばかりではなく貴重な考えや精神、理のようなもの
も、他の貴重な能力や考えや精神・理をエサにして存在し続け
る。

非常にnaif(クドいようだが、わたしは今や、この語を美しい
ものを指す語として使っていない・欠乏を伴ったバカ、くらい
の意味で使っている)だが、いよいよ、自分がエサになる覚悟が
できあがりつつあるような気がしている。 何のエサかがまだ
どうもボヤけている。

下に書いたことはまだ甘い。 趣味の範囲を出ていない。 エサと
しての覚悟が無さ過ぎる。 恐らくわたしは、言論によって何かの
エサになることが適している。 道順は多分、幾つかある。 どの
道を使っても構わないから、ちゃんとしたエサになりたいものだ。

この頃の「定量教」(何であっても、定量した結果が評価の物差し
となっていること)には、対抗せねばならないような気がする。
文章も、もっと上手く(簡潔かつ平易で的確に)書けないといけ
ない気がする。 今の生活場所には到底留まっていられないような
気もする。 頭のどこかで考えているもっと安穏としていたいと
いうサボリ心が、まだ完全に消えていないような気もする。
 

以上は、新着順1番目から10番目までの記事です。 1  2  3  4  5  6  7  8  9  |  《前のページ |  次のページ》 
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